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量子もつれとベルの不等式:アインシュタイン最後の敗北と量子情報革命の夜明け

「不気味な遠隔作用」とEPRパラドックス。局所実在論の破綻を証明したベルの不等式とアスペの実験、ノーベル賞への軌跡。

量子もつれとベルの不等式:アインシュタイン最後の敗北と量子情報革命の夜明け

現代物理学における最大のミステリーであり、同時に最強のツールでもある「量子もつれ(Quantum Entanglement)」。そして、人間の直感である「局所実在論」を打ち破った「ベルの不等式」。これらは単なる物理学の理論的な遊戯ではなく、宇宙の根源的な性質を我々に突きつけ、さらには量子コンピューターや量子暗号通信といった次世代テクノロジーの基盤となっています。

本記事では、1935年のアインシュタインらのEPR論文から始まり、隠れた変数理論の苦悩、ジョン・スチュワート・ベルによる歴史的な不等式の導出、CHSH不等式と量子力学における最大違反(チレルソン限界)の数学的証明、そしてアスペらによる実験的検証から2022年のノーベル物理学賞に至るまでの壮大なドラマを、物理学・量子情報科学・科学哲学の視点から極めて詳細に解説します。さらには、多粒子エンタングルメントのGHZ状態による局所実在論の完全否定、量子テレポーテーションの厳密なプロトコル、エンタングルメントの定量化手法まで、数式を交えて深く掘り下げていきます。


第1章:1935年、アインシュタインの逆襲

量子力学が1920年代にコペンハーゲン学派(ニールス・ボーアやヴェルナー・ハイゼンベルクら)によって定式化されていく中、アルベルト・アインシュタインはその確率論的かつ非決定論的な解釈に強烈な不満を抱いていました。「神はサイコロを振らない」という彼の有名な言葉は、量子力学の根底にある確率的な性質への拒絶を表しています。

1935年、アインシュタインはボリス・ポドルスキー、ネイサン・ローゼンと共に、物理学史に残る歴史的論文『物理的実在の量子力学的記述は完全と考えうるか?(Can Quantum-Mechanical Description of Physical Reality Be Considered Complete?)』、いわゆる「EPR論文」を発表しました。この論文の目的は、量子力学が「不完全」であること、すなわちまだ我々が知らない「隠れた変数」が存在するはずだということを論理的に証明することでした。

局所性と実在性の定義

EPR論文の論理展開を理解するためには、アインシュタインらが前提とした2つの根本的な概念を正確に把握する必要があります。

  1. 実在性(Realism): 観測されるかどうかにかかわらず、物理系は確定した物理的性質(値)を持っているという考え方。EPR論文では「物理系の状態をいかなる意味でも乱すことなく、ある物理量の値を確実に(確率1で)予測できるならば、その物理量に対応する物理的実在の要素が存在する」と定義されました。言い換えれば、測定前から対象はその属性を確定的に保持しているという、古典力学では当たり前の常識です。
  2. 局所性(Locality): 空間的に離れた2つの領域において、一方で行われた操作や測定が、光速を超えて瞬時にもう一方の領域の物理的現実に影響を及ぼすことはない、という相対性理論に基づく原則です。特殊相対性理論により、光速を超える情報の伝達は因果律の破綻を招くため、いかなる物理的相互作用も光速の制限を受けます。

「不気味な遠隔作用」(Spooky action at a distance)とEPRパラドックス

EPR論文では、以下のような思考実験が提示されました。 互いに強く相互作用した後に遠く離れ離れになった2つの粒子AとBを考えます。量子力学の枠組みでは、この2つの粒子は「もつれた(Entangled)」状態にあり、全体の波動関数として記述されます。

粒子Aの位置 $x_A$ を測定したとします。運動量保存則などにより、Aの位置が確定すると、瞬時に粒子Bの位置 $x_B$ も確定します。一方で、粒子Aの運動量 $p_A$ を測定すれば、粒子Bの運動量 $p_B$ が瞬時に確定します。 量子力学によれば、位置と運動量は非可換な物理量であり($[x, p] = i\hbar$)、同時に確定した値を持つことはできません(ハイゼンベルクの不確定性原理)。しかし、Aに対する測定の選択(位置を測るか運動量を測るか)が、光速を超えて瞬時にBの状態(位置が確定している状態か、運動量が確定している状態か)を決定するように見えます。

もし「局所性」が正しいなら、Aへの測定がBへ瞬時に影響を与えることはあり得ません。アインシュタインはこれを「不気味な遠隔作用(Spukhafte Fernwirkung / Spooky action at a distance)」と呼び、強く批判しました。したがって、Bは測定される前からあらかじめ位置も運動量も確定した値(隠れた変数)を持っていなければならず、位置も運動量も記述しきれていない量子力学は「不完全な理論」である、と彼らは結論づけたのです。このパラドックスは、後の量子情報理論におけるエンタングルメントの本質的な理解への第一歩となりました。


第2章:隠れた変数理論のジレンマとボーム力学

EPR論文の発表後、物理学者たちは「量子力学は正しいが不完全であり、より深い階層に決定論的な理論(隠れた変数理論)が存在するのではないか」という仮説の探求に向かいました。

フォン・ノイマンの誤った「不可能性定理」

この議論に冷や水を浴びせたのが、天才数学者ジョン・フォン・ノイマンです。彼は1932年の著書『量子力学の数学的基礎』の中で、量子力学と同じ予測を与えるような「隠れた変数理論」を構築することは数学的に不可能である、という証明(不可能性定理)を提示しました。 フォン・ノイマンの権威は絶大であり、その後数十年間にわたり、「隠れた変数の探求は無意味である」という風潮が物理学界を支配しました。

しかし、後に明らかになるように、フォン・ノイマンの証明には「隠れた変数が満たすべき条件」として、極めて限定的で非物理的な仮定(非可換な物理量の期待値の加法性:$\langle A+B \rangle = \langle A \rangle + \langle B \rangle$ が隠れた変数のレベルでも成り立つという仮定)が含まれており、実は完全な証明ではありませんでした。グレーテ・ヘルマンはこの欠陥に早くから気付いていましたが、当時は注目されませんでした。

ボーム力学:非局所的隠れた変数理論

1952年、デヴィッド・ボームは、フォン・ノイマンの不可能性定理を打ち破り、量子力学と完全に一致する予測を与える決定論的な「隠れた変数理論(ボーム力学、あるいはド・ブロイ=ボーム理論)」を構築しました。 ボームの理論では、粒子は常に明確な位置(隠れた変数)を持ち、宇宙全体に広がる「量子ポテンシャル」によって導かれます。シュレーディンガー方程式を極座標表示に変換することで得られるこのポテンシャル $Q = -\frac{\hbar^2}{2m}\frac{\nabla^2 R}{R}$ は、距離に依存せず減衰しないという特異な性質を持ちます。

しかし、ボーム力学には重大な代償がありました。量子ポテンシャルは空間全体に瞬時に影響を及ぼすため、この理論は本質的に「非局所的」だったのです。アインシュタインが最も嫌悪した「不気味な遠隔作用」を、ボーム力学は理論の根幹として内包していました。 アインシュタインはボームの理論に対しても「安上がりな解決策だ」として否定的な態度を取り、依然として「局所的」な隠れた変数理論の存在を信じていました。


第3章:スピン1/2粒子の単一項状態と量子力学の厳密な予測

ベルの不等式へと進む前に、量子力学が予測するエンタングルメントの相関について、パウリ行列を用いた厳密なブラ・ケット計算過程を完全に展開しておきましょう。これが後に局所実在論と衝突する量子力学の核心となります。

スピン1/2の粒子ペアが生成され、総スピンがゼロの「単一項状態(Singlet State)」にあるとします。この状態 $|\psi^-\rangle$ は次のように記述されます。

$$ |\psi^-\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}} \left( |\uparrow\rangle_A \otimes |\downarrow\rangle_B - |\downarrow\rangle_A \otimes |\uparrow\rangle_B \right) $$

ここで、$|\uparrow\rangle, |\downarrow\rangle$ はそれぞれスピンの上向き($+1$)、下向き($-1$)の固有状態($z$基底)を表します。簡略化して $|\psi^-\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}}(|\uparrow\downarrow\rangle - |\downarrow\uparrow\rangle)$ と書くこともあります。

アリスが方向 $\vec{a}$、ボブが方向 $\vec{b}$ でそれぞれの粒子のスピンを測定します。方向ベクトルは単位ベクトルであり、球座標系で $\vec{a} = (\sin\theta_a\cos\phi_a, \sin\theta_a\sin\phi_a, \cos\theta_a)$ などと表せます。 各方向のスピン測定演算子は、パウリ行列 $\vec{\sigma} = (\sigma_x, \sigma_y, \sigma_z)$ を用いて $\sigma_a = \vec{a} \cdot \vec{\sigma}$、$\sigma_b = \vec{b} \cdot \vec{\sigma}$ となります。

私たちが知りたいのは、アリスとボブの測定結果の積の期待値 $\langle \sigma_a \otimes \sigma_b \rangle$ です。これを計算するために、期待値の定義に従って展開します。

$$ \langle \psi^- | (\vec{a} \cdot \vec{\sigma}) \otimes (\vec{b} \cdot \vec{\sigma}) | \psi^- \rangle $$

まず、パウリ行列の性質として、$\vec{a} \cdot \vec{\sigma} = a_x \sigma_x + a_y \sigma_y + a_z \sigma_z$ を考えます。計算を簡単にするための巧妙なテクニックとして、単一項状態 $|\psi^-\rangle$ が回転不変である(任意の基底において同じ形を持つ)ことを利用します。しかしここでは、より直接的な代数的アプローチによる完全展開を行います。

$$ \sum_{i \in \{x,y,z\}} \sum_{j \in \{x,y,z\}} a_i b_j (\sigma_i \otimes \sigma_j) $$$$ \sum_{i,j} a_i b_j \langle \psi^- | \sigma_i \otimes \sigma_j | \psi^- \rangle $$

となります。ここで、$\langle \psi^- | \sigma_i \otimes \sigma_j | \psi^- \rangle$ を各成分について評価します。

$|\psi^-\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}}(|01\rangle - |10\rangle)$ に対して、

  • $\sigma_z \otimes \sigma_z$: $\sigma_z \otimes \sigma_z |01\rangle = (+1)(-1)|01\rangle = -|01\rangle$ $\sigma_z \otimes \sigma_z |10\rangle = (-1)(+1)|10\rangle = -|10\rangle$ よって $\sigma_z \otimes \sigma_z |\psi^-\rangle = -|\psi^-\rangle$ となり、期待値は $-1$。
  • $\sigma_x \otimes \sigma_x$: $\sigma_x \otimes \sigma_x |01\rangle = |10\rangle$ $\sigma_x \otimes \sigma_x |10\rangle = |01\rangle$ よって $\sigma_x \otimes \sigma_x \frac{1}{\sqrt{2}}(|01\rangle - |10\rangle) = \frac{1}{\sqrt{2}}(|10\rangle - |01\rangle) = -|\psi^-\rangle$ となり、期待値は $-1$。
  • $\sigma_y \otimes \sigma_y$: $\sigma_y |0\rangle = i|1\rangle, \sigma_y |1\rangle = -i|0\rangle$ より、 $\sigma_y \otimes \sigma_y |01\rangle = (i|1\rangle) \otimes (-i|0\rangle) = |10\rangle$ $\sigma_y \otimes \sigma_y |10\rangle = (-i|0\rangle) \otimes (i|1\rangle) = |01\rangle$ よって $\sigma_y \otimes \sigma_y |\psi^-\rangle = -|\psi^-\rangle$ となり、期待値は $-1$。

一方で、異なる成分(例:$\sigma_x \otimes \sigma_y$)の期待値はすべて $0$ となります。 なぜなら、$\sigma_x \otimes \sigma_y |01\rangle = |1\rangle \otimes (-i|0\rangle) = -i|10\rangle$ などとなり、$\langle \psi^-|$ との内積を取ると直交性により消えるからです。

$$ \sum_{i} a_i b_i \langle \psi^- | \sigma_i \otimes \sigma_i | \psi^- \rangle = \sum_{i} a_i b_i (-1) = - (a_x b_x + a_y b_y + a_z b_z) = - \vec{a} \cdot \vec{b} $$

と厳密に導出されます。 ベクトル $\vec{a}$ と $\vec{b}$ のなす角を $\theta$ とすれば、内積の定義より $\vec{a} \cdot \vec{b} = |\vec{a}||\vec{b}|\cos\theta = \cos\theta$(方向ベクトルは単位ベクトルなので長さ1)。 ゆえに、量子力学が予測する相関は以下の極めて美しいシンプルな式になります。

$$ E(\vec{a}, \vec{b}) = \langle \sigma_a \otimes \sigma_b \rangle = - \cos\theta $$

この $-\cos\theta$ という強力な相関こそが、古典的な隠れた変数理論では絶対に再現できない「量子特有の振る舞い」の源泉となります。


第4章:ジョン・スチュワート・ベルの衝撃とCHSH不等式の厳密な導出

1964年、CERNで素粒子物理学の研究を行っていたアイルランドの物理学者ジョン・スチュワート・ベルは、余暇を利用して量子力学の基礎問題を研究していました。彼はボーム力学が非局所的であることを踏まえ、次のような深遠な疑問を抱きました。

「果たして、アインシュタインが望んだような『局所的』な隠れた変数理論で、量子力学のすべての予測を再現することは可能なのだろうか?」

ベルは、哲学的な論争に過ぎなかったこの問題を、厳密な数学的定式化によって、実験的に検証可能な形へと昇華させました。これが科学史に燦然と輝く「ベルの定理(Bell’s Theorem)」および「ベルの不等式」です。 そして1969年、ジョン・クラウザー、マイケル・ホーン、アブナー・シモニ、リチャード・ホルトの4名(CHSH)は、現実の実験で検証可能な拡張版の不等式「CHSH不等式」を導出しました。

局所実在論の仮定とCHSH不等式の積分・代数展開

$$ \int \rho(\lambda) d\lambda = 1 $$

です。

$$ A(a, \lambda) = \pm 1, \quad B(b, \lambda) = \pm 1 $$$$ A(a', \lambda) = \pm 1, \quad B(b', \lambda) = \pm 1 $$$$ E(a, b) = \int A(a, \lambda) B(b, \lambda) \rho(\lambda) d\lambda $$$$ S(\lambda) = A(a, \lambda)B(b, \lambda) + A(a, \lambda)B(b', \lambda) + A(a', \lambda)B(b, \lambda) - A(a', \lambda)B(b', \lambda) $$$$ S(\lambda) = A(a, \lambda) \left[ B(b, \lambda) + B(b', \lambda) \right] + A(a', \lambda) \left[ B(b, \lambda) - B(b', \lambda) \right] $$

ここで極めて重要な論理的ステップが入ります。$B(b, \lambda)$ と $B(b', \lambda)$ は、どちらも必ず $+1$ または $-1$ の値をとります。 したがって、それらの和と差を考えると、以下の2つのケースしか存在しません。

  • ケース1: $B(b, \lambda) = B(b', \lambda)$ の場合 和は $B(b, \lambda) + B(b', \lambda) = \pm 2$ となり、差は $B(b, \lambda) - B(b', \lambda) = 0$ となります。
  • ケース2: $B(b, \lambda) = -B(b', \lambda)$ の場合 和は $B(b, \lambda) + B(b', \lambda) = 0$ となり、差は $B(b, \lambda) - B(b', \lambda) = \pm 2$ となります。
$$ S(\lambda) = \pm 2 $$$$ |S(\lambda)| = 2 $$

となります。

$$ |S| = \left| \int S(\lambda) \rho(\lambda) d\lambda \right| \le \int |S(\lambda)| \rho(\lambda) d\lambda $$$$ |S| \le \int 2 \rho(\lambda) d\lambda = 2 $$$$ S = E(a, b) + E(a, b') + E(a', b) - E(a', b') $$$$ |E(a, b) + E(a, b') + E(a', b) - E(a', b')| \le 2 $$

これが、宇宙が「局所実在論」に従っているならば、絶対に超えることのできない限界値です。

量子力学的最大違反(チレルソン限界)

第3章で導出した量子力学の予測 $E(\vec{a}, \vec{b}) = -\cos\theta$ を思い出してください。 アリスとボブが以下の角度に測定器を設定したとします。

  • $a = 0$
  • $a' = \pi/2$
  • $b = \pi/4$
  • $b' = -\pi/4$

(※なお、光子の偏光を用いる場合はスピン1/2とは係数が異なり $E = \cos(2\theta)$ となりますが、スピンを用いた上記設定で計算しても本質は同じです) 各設定間の角度差は、 $|a - b| = \pi/4$ $|a - b'| = \pi/4$ $|a' - b| = \pi/4$ $|a' - b'| = 3\pi/4$

量子力学の予測に代入すると、 $E(a, b) = -\cos(\pi/4) = -1/\sqrt{2}$ $E(a, b') = -\cos(\pi/4) = -1/\sqrt{2}$ $E(a', b) = -\cos(\pi/4) = -1/\sqrt{2}$ $E(a', b') = -\cos(3\pi/4) = +1/\sqrt{2}$

$$ S = \left( -\frac{1}{\sqrt{2}} \right) + \left( -\frac{1}{\sqrt{2}} \right) + \left( -\frac{1}{\sqrt{2}} \right) - \left( +\frac{1}{\sqrt{2}} \right) = -\frac{4}{\sqrt{2}} = -2\sqrt{2} $$

絶対値をとれば $|S| = 2\sqrt{2} \approx 2.828$ となります。

局所実在論の限界である $2$ を明らかに超えています($2.828 > 2$)。この量子力学によって達成可能な最大値を**チレルソン限界(Tsirelson Bound)**と呼びます。数学の厳密な証明により、局所実在論は量子力学の予測とは絶対に相容れないことが示されたのです。


第5章:多粒子エンタングルメントと局所実在論の「一撃」否定(All-or-Nothing)

ベルの定理は統計的な相関の「不等式」に基づいていました。しかし、1989年にダニエル・グリーンバーガー、マイケル・ホーン、アントン・ツァイリンガーの3人は、3つの粒子がもつれた状態(GHZ状態)を考えれば、不等式や統計的確率に頼ることなく、たった1回の測定結果の矛盾だけで局所実在論を完全に論破できることを示しました。これを「All-or-Nothingの証明」または「GHZ定理」と呼びます。

GHZ状態の性質

$$ |GHZ\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}} \left( |\uparrow\uparrow\uparrow\rangle - |\downarrow\downarrow\downarrow\rangle \right) $$

ここに、次のようなパウリ演算子の積を作用させます。

  1. $X_1 Y_2 Y_3 = \sigma_x^{(1)} \otimes \sigma_y^{(2)} \otimes \sigma_y^{(3)}$
  2. $Y_1 X_2 Y_3 = \sigma_y^{(1)} \otimes \sigma_x^{(2)} \otimes \sigma_y^{(3)}$
  3. $Y_1 Y_2 X_3 = \sigma_y^{(1)} \otimes \sigma_y^{(2)} \otimes \sigma_x^{(3)}$
  4. $X_1 X_2 X_3 = \sigma_x^{(1)} \otimes \sigma_x^{(2)} \otimes \sigma_x^{(3)}$

$\sigma_x |\uparrow\rangle = |\downarrow\rangle, \sigma_x |\downarrow\rangle = |\uparrow\rangle$ $\sigma_y |\uparrow\rangle = i|\downarrow\rangle, \sigma_y |\downarrow\rangle = -i|\uparrow\rangle$ を用いて $X_1 Y_2 Y_3$ を $|GHZ\rangle$ に作用させると、 $X_1 Y_2 Y_3 |\uparrow\uparrow\uparrow\rangle = |\downarrow\rangle (i|\downarrow\rangle) (i|\downarrow\rangle) = -|\downarrow\downarrow\downarrow\rangle$ $X_1 Y_2 Y_3 |\downarrow\downarrow\downarrow\rangle = |\uparrow\rangle (-i|\uparrow\rangle) (-i|\uparrow\rangle) = -|\uparrow\uparrow\uparrow\rangle$ したがって、 $X_1 Y_2 Y_3 |GHZ\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}} (-|\downarrow\downarrow\downarrow\rangle + |\uparrow\uparrow\uparrow\rangle) = |GHZ\rangle$ となり、固有値は $+1$ です。対称性から、$Y_1 X_2 Y_3$、$Y_1 Y_2 X_3$ についても同様に固有値は $+1$ となります。

一方、$X_1 X_2 X_3$ を作用させると、 $X_1 X_2 X_3 |\uparrow\uparrow\uparrow\rangle = |\downarrow\downarrow\downarrow\rangle$ $X_1 X_2 X_3 |\downarrow\downarrow\downarrow\rangle = |\uparrow\uparrow\uparrow\rangle$ したがって、 $X_1 X_2 X_3 |GHZ\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}} (|\downarrow\downarrow\downarrow\rangle - |\uparrow\uparrow\uparrow\rangle) = -|GHZ\rangle$ となり、固有値は $-1$ です。量子力学は以上の結果を確実(確率1)に予測します。

局所実在論の破綻の代数的証明

局所実在論では、測定結果はあらかじめ決定された隠れた変数によって決まると考えます。 粒子1のX方向、Y方向の測定結果をそれぞれ $m_x^1, m_y^1 \in \{+1, -1\}$ とします。同様に粒子2、3についても定義します。 量子力学の $+1$ の予測に一致しなければならないため、局所実在論のモデルは以下の3つの方程式を満たす必要があります。

  1. $m_x^1 m_y^2 m_y^3 = +1$
  2. $m_y^1 m_x^2 m_y^3 = +1$
  3. $m_y^1 m_y^2 m_x^3 = +1$

これら3つの方程式をすべて掛け合わせます。 $(m_x^1 m_y^2 m_y^3)(m_y^1 m_x^2 m_y^3)(m_y^1 m_y^2 m_x^3) = +1 \times +1 \times +1 = +1$ 左辺を整理すると、各 $m_y^i$ は2回ずつ掛けられるため $(m_y^i)^2 = 1$ となります。 $m_x^1 m_x^2 m_x^3 (m_y^1)^2 (m_y^2)^2 (m_y^3)^2 = m_x^1 m_x^2 m_x^3 = +1$

つまり、局所実在論に従う限り、$X_1 X_2 X_3$ の測定結果は必ず $+1$ にならなければなりません。 しかし、先ほど見たように、量子力学の厳密な予測(そして実際の実験結果)は $-1$ です。 $+1$ と $-1$。統計的な不等式すら必要なく、単一の測定において局所実在論と量子力学は決定的に矛盾し、量子力学の正しさが証明されたのです。

(※ちなみに3粒子もつれには、GHZ状態とは異なる性質を持つW状態 $|W\rangle = \frac{1}{\sqrt{3}}(|100\rangle + |010\rangle + |001\rangle)$ も存在し、粒子を1つ失ってもエンタングルメントが完全に壊れないという堅牢性を持ちます。)


第6章:量子情報科学への応用と量子テレポーテーションの厳密展開

エンタングルメントは、パラドックスの対象から「情報資源」へと変貌を遂げました。その代表例が「量子テレポーテーション」です。1993年にチャールズ・ベネットらによって提案され、1997年にアントン・ツァイリンガー(2022年ノーベル賞受賞者)のグループによって初めて実験的に実証されました。

量子テレポーテーションプロトコルの数式展開

アリスが未知の量子状態 $|\phi\rangle = \alpha|0\rangle + \beta|1\rangle$ を持っており、これを遠く離れたボブに転送したいとします。($|\alpha|^2 + |\beta|^2 = 1$) 量子複製不可能定理(No-cloning theorem)により、この状態をコピーして送ることはできません。また、測定してしまうと状態が収縮し、未知の $\alpha, \beta$ を正確に知ることはできません。

$$ |\Phi^+\rangle_{AB} = \frac{1}{\sqrt{2}}(|0\rangle_A |0\rangle_B + |1\rangle_A |1\rangle_B) $$$$ |\psi_{total}\rangle = |\phi\rangle_C \otimes |\Phi^+\rangle_{AB} = (\alpha|0\rangle_C + \beta|1\rangle_C) \otimes \frac{1}{\sqrt{2}}(|0\rangle_A |0\rangle_B + |1\rangle_A |1\rangle_B) $$$$ \frac{1}{\sqrt{2}} \left( \alpha|000\rangle + \alpha|011\rangle + \beta|100\rangle + \beta|111\rangle \right) $$

(※添え字は $C, A, B$ の順)

ここでアリスは、手元にある粒子Cと粒子Aに対して「ベル測定(Bell measurement)」を行います。これは、2つの粒子を以下の4つのベル状態の基底に投影する測定です。 $|\Phi^\pm\rangle_{CA} = \frac{1}{\sqrt{2}}(|00\rangle \pm |11\rangle)$ $|\Psi^\pm\rangle_{CA} = \frac{1}{\sqrt{2}}(|01\rangle \pm |10\rangle)$

$$ |\psi_{total}\rangle = \frac{1}{2} \left[ |\Phi^+\rangle_{CA}(\alpha|0\rangle_B + \beta|1\rangle_B) + |\Phi^-\rangle_{CA}(\alpha|0\rangle_B - \beta|1\rangle_B) + |\Psi^+\rangle_{CA}(\alpha|1\rangle_B + \beta|0\rangle_B) + |\Psi^-\rangle_{CA}(\alpha|1\rangle_B - \beta|0\rangle_B) \right] $$

アリスがベル測定を行うと、系はこの4つの項のいずれかに確率1/4で収縮します。

  1. もしアリスが $|\Phi^+\rangle$ を得た場合、ボブの状態は $\alpha|0\rangle + \beta|1\rangle = |\phi\rangle$ となり、すでに転送が完了しています(ユニタリ演算 $I$)。
  2. もし $|\Phi^-\rangle$ を得た場合、ボブの状態は $\alpha|0\rangle - \beta|1\rangle$。ボブがパウリ $Z$ 演算子($\sigma_z$)をかければ $|\phi\rangle$ に戻ります。
  3. もし $|\Psi^+\rangle$ を得た場合、ボブの状態は $\alpha|1\rangle + \beta|0\rangle$。ボブがパウリ $X$ 演算子($\sigma_x$)をかければ $|\phi\rangle$ に戻ります。
  4. もし $|\Psi^-\rangle$ を得た場合、ボブの状態は $\alpha|1\rangle - \beta|0\rangle$。ボブが $Z$ をかけてから $X$ をかける($XZ$ または $i\sigma_y$)ことで $|\phi\rangle$ に戻ります。

アリスは測定結果(2ビットの古典情報:00, 01, 10, 11)を、通常の通信(電話やインターネット)でボブに伝えます。この通信は光速を超えないため、相対性理論と矛盾しません。ボブは受け取った2ビットに応じて適切なパウリ演算子を適用し、見事に未知の量子状態 $|\phi\rangle$ を復元します。 これが量子テレポーテーションの完全なプロトコルです。


第7章:エンタングルメントの定量化(Quantification)

エンタングルメントは単に「ある」か「ない」かだけでなく、「どれくらい強くもつれているか」を定量化することができます。量子情報理論において、これは極めて重要な研究テーマです。

1. フォン・ノイマン・エンタングルメント・エントロピー

$$ S(\rho_A) = -\text{Tr}(\rho_A \log_2 \rho_A) $$

ベル状態のような最大もつれ状態では、$\rho_A$ は完全な混合状態(単位行列に比例)となり、$S = 1$(最大値)をとります。直感的に言えば「全体の状態は完全に分かっているのに、部分(系A)のことだけを見ると全く情報がない(ランダムに見える)」というエンタングルメントの本質を表しています。

2. コンカレンス(Concurrence)

$$ C(\rho) = \max(0, \lambda_1 - \lambda_2 - \lambda_3 - \lambda_4) $$

$C(\rho)$ は $0$(もつれなし)から $1$(最大もつれ)の値を取り、この値を用いて「エンタングルメント・オブ・フォーメーション」という別の尺度を直接計算できるという強力な数学的性質を持ちます。

3. Negativity

$$ \mathcal{N}(\rho) = \frac{||\rho^{T_B}||_1 - 1}{2} $$

これは負の固有値の絶対値の総和に等しく、計算が容易であるため、高次元系や多体系のエンタングルメントを研究する上で極めて有用な指標となっています。


第8章:実験的検証と抜け穴(Loophole)の完全閉鎖

理論は完成し、応用も見えてきました。残るは、自然界が実際にどちらの法則に従っているか、実験室で問い詰めることです。

アラン・アスペのスイッチ実験(1982年)

アリスとボブが測定器の角度を決めた後、その情報が光速以下のスピードで相手側に伝わり、「隠れた変数」に影響を与えている可能性を排除しなければなりません。これを「局所性の抜け穴(Locality Loophole)」と呼びます。 フランスのアラン・アスペらは、光子が光源から測定器に向かって飛んでいる間に、音響光学素子を用いて超高速で測定器の角度設定をランダムに切り替える実験に成功しました。これにより、光速の信号であっても情報が伝達できない状況(空間的隔離)を作り出し、見事に不等式の破れを観測しました。アインシュタインの「不気味な遠隔作用」は、現実のものとなったのです。

究極の挑戦:完全なLoophole-free実験(2015年)

アスペの実験後も、検出効率の低さ(測定できなかった光子が都合の良い隠れた変数を持っていたとする「検出の抜け穴 / Fair-sampling Loophole」)など、ごくわずかな反論の余地が残されていました。 しかし2015年、ついにオランダ・デルフト工科大学、オーストリアのウィーン大学、アメリカのNISTなどの複数の研究グループが、あらゆる主要な抜け穴を同時に塞いだ「Loophole-free Bell test」に成功しました。デルフトの実験では、1.3km離れたダイヤモンドのNV中心にある電子スピンをもつれさせることで、局所性の抜け穴と検出の抜け穴を完全に封鎖し、局所実在論の棺桶に最後の釘を打ち込みました。


結びにかえて:アインシュタインの敗北がもたらした光

2022年、量子力学の基礎を決定的に打ち立てたアラン・アスペ、ジョン・クラウザー、アントン・ツァイリンガーの3名にノーベル物理学賞が授与されました。

アインシュタインは量子力学の確率的性質と非局所性を嫌い、それを批判するためにEPR論文を書きました。しかし皮肉なことに、彼の鋭い批判が「もつれ」という概念を明確に浮き彫りにし、ベルという天才を通じて、人類が宇宙の非局所的な繋がりを真に理解し、テクノロジーとして活用するための道を切り開く結果となりました。

アインシュタインの「最後の敗北」は、決して物理学の停滞ではなく、人類が量子情報という全く新しい宇宙の言語を獲得するための偉大な夜明けだったのです。


文責:量子情報科学技術ライター この記事は量子力学の基礎から最先端の量子情報技術までを網羅した学術的解説です。

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